第千百九十話・没ネタ
Side:北畠具教
新年明けて十日、やっと城を出て尾張に来られた。家を継ぐのも楽ではないと改めて思い知らされたわ。
「やはり霧山からでは遠いの」
今日は父上と共に船で蟹江に来た。船に乗ってしまえばすぐなのだが、いかんせん内陸にある霧山からでは港まで遠いのだ。滅多に尾張に来られぬ父上ですらそう思われるのだ。わしなど幾度となくそう思うたものよ。
「ここか」
蟹江の湊から町に入り、少し歩いた先に屋敷があった。門からして立派なものだ。町外れではあるが、近隣には織田の屋敷もある。
「中に入られまするか?」
「うむ、そうじゃの」
父上は門を見てしばし思案する素振りを見せておられたが、案内役の者に連れられるように屋敷の敷地に入った。
わしは普請の時から見ておるが、こうして出来た姿を見るとまた違って見える。
ここは北畠家の屋敷になるのだ。費用のこともありすぐに決めかねておったが、内匠頭殿が早い方が良かろうと勧めてくれたのが蟹江なのだ。清洲では織田に屈したように見えるかもしれぬし、北伊勢の桑名などではいらぬ勘違いをして対立を煽る者が出かねぬ。
その点、蟹江ならばいずこに行くにも有利な地だ。ここにも城はあるが、学校として使っておるだけで代官もおらぬ。随分と気を使わせてしまったわ。
「十分じゃの。これほど贅を凝らさずとも良かったものを」
畳を敷きつめた室《しつ》や、近頃では伊勢でも大湊などでよく見かけるようになった椅子と食卓がある室など、いずれも誰が入っても恥ずかしゅうない造りだ。父上も少し驚いておるわ。
ただ屋敷の詳細はわしも口を出しておらぬ。内匠頭殿の任せた故にな。中に入ったのも初めてなのだ。一馬から話を聞いておったが、見てみると驚いたほうだ。
「わしはこちらに移ることにするか」
屋敷を見て回り一息つくと、父上が突如口にされた言葉にわしと家臣らは驚き見入ってしまう。聞いておらぬぞ。そのようなこと。
「大御所様!?」
「なりませぬぞ!」
「良いではないか。わしはすでに隠居した身じゃ」
「されど!」
戯言かと思うたが、本気のようだ。年老いた重臣どもが止めようとしておるが、父上は笑うて取り合わぬ。なにをお考えなのだ?
Side:久遠一馬
具教さんから、蟹江屋敷の完成を祝って宴をするからと招待されたので蟹江に来た。義統さんと義信くん、信秀さんと信長さんも一緒だ。領内だと馬車で移動出来るから早くていいね。
「なかなかよい屋敷だな」
それと今日は菊丸さんたちがいる。菊丸さんたちは観音寺城で正月を迎えだが、松の内も開けないうちに尾張に来た。今日、北畠家の晴具さんと具教さんが来ると知って、それに合わせたんだ。
それというのも北畠親子に会いたいらしい。昨年の一月に三好長慶に密かに会っていて、今年も会いにいくようだが、その前に北畠家がどういう状況なのか見極めたいんだそうだ。
「公卿家ですからね。恥じぬ屋敷がいりますから」
屋敷の費用、結局織田で出したんだよね。あとで北畠家から払うというとは思うが。信秀さんが費用の問題ならさっさと建ててしまえと命じたんだ。お金で済むことは済ませる。ほんと合理的になったね。
屋敷に入ると、具教さんとの目通りを頼んで案内された控室で待つ。
「待たせて済まぬな。少し思いもしなかったことがあって」
宴の前に義藤さんとの会談をセットしたいんだけど、具教さんの様子がおかしい。なにか不手際でもあったのかと不安になる。
「あっ、屋敷に不満などない。むしろ満足したがゆえに思いもせぬことがあってな。ここだけの話ぞ。実は父上がここに移ると言いだしてな。家臣らが慌てておるのだ」
えっ、晴具さん。蟹江に住むの? 聞いてないんだけど。
「宰相殿。その話を決める前に、実はそなたと大御所殿に会わせたい御方がおる」
どうしようかと義統さんと信秀さんを見ると、義統さんが本題を切り出してくれた。
「会わせたい……御方?」
そのニュアンスに具教さんの顔つきが変わる。ただ予想している人物とは違うだろう。おそらく公家あたりだと予想していると思うんだけど。
「公方様が参られておる」
その一言に具教さんが固まった。
菊丸さんはウチの家臣と一緒に離れたところで控えている。具教さんも菊丸さんが塚原さんの弟子だと知っているが、塚原さんの弟子がウチに出入りして、時には一緒にオレのお供をしているのって珍しくないんだよね。
暇な時とか仕事とか手伝ってくれているし、それを菊丸さんがオレと一緒にいる理由にしているから。
「まことか? ならばすぐに挨拶に出向かねば」
「いや、それには及ばぬ。あくまでもお忍びで来られておる故、内々にそなたと大御所殿のふたりと会いたいと仰せなのじゃ」
具教さん、どうも清洲にいると勘違いしたみたい。まあそうだよね。オレたちの中に将軍様がいるとは思わないだろう。初めのころは違和感があったが、最近だとそこまで素性を疑われることもなくなったらしいし。
「いずこに参ればよいので? すぐに着替えて参るが」
「実はこの場に参っておる。仰々しい挨拶も不要だと仰せでな。そうじゃの、そのままでよい。茶の支度でもしてわしらを招いてくれぬか?」
「ではすぐに父上に知らせて参りまする」
血相を変えて部屋を出ていく具教さんの姿に、義藤さんの身分を改めて思い知らされる。資清さんなんか今でも緊張するというくらいだし、分かっていたつもりだけど。